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昔の学生の外食事情 [昔話]

おはようございます。
最近、昔のことをよく思い出します。

それは、歳を取った証拠だと言われれば身も蓋もありませんが、悲しいかな
昔は僕でも輝いていた時期があったのかとも思います。

中でも一番良く思い出すのが、学生時代、そう今から三十数年前の東京での
暮らしでです。

当時の僕は、小田急沿線の千歳船橋というところから歩いて20分ばかりの、
築20年は経っているアパートに住んでいました。

6畳一間のトイレなし(共同)、風呂なしという条件でしたが、当時の友人の中では
比較的部屋が広いので羨ましがられたものです。

家賃は16,000円、仕送りを5万円もしてもらっていたせいで、ずいぶん優雅な
学生生活を送れたものだと両親には感謝していますが、それはあくまで普通の生活を
していた場合に限られますけどね。

さて、三十数年前にはさぞや生活も今と変わっていたのだろうと思う方もいるでしょうが、
実はそんなに変わりもしないんですね。

と言うのも、千歳船橋のような各駅停車しか停まらない駅でも、駅前にはマックは
ありましたし、ケンタッキーまで営業していました。

また隣駅の経堂にはスーパーの走りのような大型のショッピングセンターもありましたし、
大学周辺(千代田区神田神保町)には、Mr. ドーナツや吉野家も存在しましたから
値段以外はそんなに違いはないでしょう。

ただね、普通の学生が一食にかけれれる金額というものからすれば、上記の中で普段
口にするものは、吉野家ぐらいでしたか。

その吉野家も、当時たしか200円だった料金を数年後に350円にまで値上げした途端に、
倒産という憂き目に遭っているから、当時の学生は値段にはシビアでした。
学生食堂に行けば100円台で飯が食えた時代でしたからね。

マクドナルドは毎日その店の前を通っての通学でしたが、食べるのはそう、月に一度
ぐらいでしたか。
当時はマックのメニューに何があったのかは記憶にありませんが、いつも食べたのは
普通のハンバーガーで、コーヒーを付けると200円台になりました。

これでお腹一杯になるかというと、食べ盛りの頃の僕には前菜程度の感じしかしなくて、
また学食に行って何か食べていましたね。(笑)

話が長くなりましたのでこのぐらいにしておきますが、この話は今後も機会を見て
続けたいと思っています。

最後になりますが、最近外食でお昼にマックを食べることが良くあります。
500円台でけっこうボリュームもあり、手頃だというのが理由ですが、あの当時の
ハンバーガーの味は今のより遥かに旨かったなぁ。


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アルバイトの思い出 [昔話]

昨日は子供が休みを利用してアルバイトへ行きました。
仕事は、本屋さんの棚卸しの補助で、一日5,500円だそうです。
今のバイトにしてはそんなに高い賃金ではないのでしょうが、近くの本屋さんなので
気楽なようです。

そういえば、数十年前の僕らの頃のバイトは一日3,000円前後であったような記憶が
あるので、時代が経っている割にバイト料って値上がりしてないような気がします。
当時は、日給もさることながら、バイトに昼食が付いているかが大問題で、昼食が付いていると
少し日給が安くても進んで行っていたような記憶があります。

ついでに、今日は、調子に乗って昔のバイトの話しに無理矢理持っていきます。(笑)

僕は、友人と比べてそんなにバイトの頻度は高くなかったんですが、それでもお金が無くなっ
たり、欲しい物があると、いそいそとバイトを探しに行きました。
たしか東京では、西武新宿線の下落合駅の側に、学徒援護会というアルバイトを紹介する
組織があって、少しでも割の良いバイトにありつこうと僕らは朝早くから並んでいました。

今では、あまり記憶にありませんが、測量の補助の仕事や、解体工事、ゴミの清掃作業、
中には、運動会の会場設営作業なんてのもありました。

一番長くやったのが、日本橋三越の酒売場のバイトでしたが、ここでの思い出も、
やはり食事ですね。(笑)
当時の三越には社員食堂が数ヶ所あったんですが、屋上の社員食堂は厨房を挟んで
反対側がお客さんの食堂だったため、お客さんと同じ物が社員価格で食べられるとあって、
人気がありました。
江戸時代かに、ライオン口の側に「キザエモン」というそば屋さんがあったそうで、
僕らは昼食に行くとき、隠語で「キザ」に行ってきますと言っていました。

当時は、三越の屋上にはステージがあり、若手の芸能人が良く出演していました。
記憶では、当時新人だった和田アキ子や中条きよしなどのリハーサル風景を
見たことがあります。

それから、今でも思い出すのが、メイデイの後のゴミ掃除のバイトです。
今は、どうか知りませんが、当時メイデイ集会は代々木公園で開かれていたのですが、
そのゴミの量たるや半端な量ではなく、僕らの受け持った原宿までの道中はゴミの
山となっていました。
当時は、僕も羞恥心があり、知り合いに見られないことを願いつつ、頭からタオルを
“ほおかむり”して、原宿まで清掃した記憶があります。

その時の仕事は三日間でしたが、最終日にゴミを捨てに行くトラックの荷台で
清掃会社の社長さんの言った言葉は、何故か今でも覚えています。
「君たちは、今から社会に出て、重要な仕事を担うようになるだろうが、この経験は
必ず役に立つはずだ」と。

今から考えると、肉体労働のようなことばかりやってきましたが、いわゆる苦学生では
無かった僕などにとっては、きれいに、そして楽に稼げる仕事よりも少しは辛い経験の方が、
ちょうど良かったのかも知れません。


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役得の話し [昔話]

先日は、仕事上で経験した悲しい話をしましたが、今回は役得の話です。
今回の話は、もう二十年以上も前の話であるし、既に当時の関係者も
いらっしゃらないことから、差し支えないと判断して紹介いたします。

富山県には大きな河川が多くありますが、○○市の中心を流れる「○○川」も
県を代表する一級河川で、有名な「富山の鱒寿司」も、かってはこの川で採れた
“さくら鱒”を使ったのが初めと言われています。

肝心の話が遅くなりましたが、僕は、子供時代から釣りが大好きでしたが、二十歳過ぎ
からはアユ採りに“はまり”ました。
アユと言えば、ここ富山では6月頃解禁になるのですが、僕の場合は主に「テンカラ」と
呼ばれる網を使いました。

この網の使い方は、いたってシンプルで、約縦幅1メートル、横幅3メートル位の網を川を
遮るように横に投げ、今度は網のまいた下流に石を投入して、驚いて上流に逃げるようと
するアユを網に引っかけて獲るという漁法です。

ご存じのように、アユを獲るには鑑札が必要なのですが、普通の河川では、釣り道具屋
に売っています。
ところが、○○川は一般人にはこの鑑札は買えません。いわゆる、世襲制のようになっており、
空きが出ないと買えない、しかも、ほとんど所持しているのは漁師に限られているという
羨望の漁業権なのです。

前置きが長くなりましたが、ある日、僕のもとに初老の男性が融資相談に来店しました。
聞けば、市内の中心部でお店を営む方で、今度息子が、別の商売を始めるので融資を
頼むというものでした。

担保物件を調べると、農地でしかも、換地作業中の難しい条件、上司などは匙を投げ
お断りするようにと言うことでしたが、若い僕はしつこく調査し、妙案を取りまとめて
何とか融資にこぎ着けました。

後日、その男性が僕の元を訪れた際、「君には世話になった」「僕の出来ることがあったら
何でも言ってくれたまえ」という感謝の言葉を口にされました。

僕は、彼がある漁協の理事だと調書で知っていたので、渡りに船と、おそるおそる、
尋ねました。
「あのう、○○川の鑑札って無理ですよね」。
彼は、しばし考えた後、「明日にでも、漁協にいらっしゃい。話はつけておくから」と。

半信半疑のまま、翌日、漁協へ行き申請書を書いて提出すると、窓口担当者曰く、
「一応はお預かりしておきます。しかし、せっかくですが、あなた、今のところ空きは
ありませんので、数十年気長にお待ちいただけますか」という嫌みを言われました。

やはりそうだったか。彼には無理なことをお願いして、申し訳なかったな。
と、諦めていた翌日、職場に漁協から「申請が認可されましたので鑑札を取りに来て
下さい」との電話がありました。
正直、この時の気分は、野球に例えれば、9回ツウアウト、一打逆転ホームランという
感じでした。
正式な申請をしたとは言え、本当はいけないことなんでしょうが、世の中には、
何事も、表と裏がありますようで。

さて、その後の話しですが、その鑑札には長年、随分活躍して貰いました。
しかし、僕がジュン君を飼うようになってからなんですが、何故かすっかり殺生が嫌になり、
釣りも、アユ漁も全て引退してしまいました。
今では、スーパーの貝類さえ、殺生が嫌で買わないほどです。(変人ですね)
したがって、もったいない気もしましたが、鑑札の権利も謹んで返上させて頂きました。
何事も、悪事は続かないということでしょうか。(笑)


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昔の悲しい話2 [昔話]

連日、暗い話で恐縮ですが、昨日に続いて昔の話をさせて下さい。
今日の事例は、今も僕の中で、少しの痛みとなって残っている話です。

昨日、とある金融機関で融資係をしていたことは話しましたが、また、それにまつわる
話題です。
金融機関に勤めていると、毎朝新聞を読みます。ここまでは、当たり前のことですが
最初に見るのが、変わっていて、慶弔欄の死去されたところの欄なんです。

理由はいろいろあるんですが、因果なことでした。
それで、ある日、いつものように死亡欄を見ていると、見覚えのある名前が載っていました。
早速調べてみると、やはり、住宅ローンの顧客でした。

このお客さん、何故覚えているかというと、延滞していたからなんです。
僕は、何度か督促を繰り返し、相当きついことも言いました。
若かったんですね。今なら、もっと、ものの言いようもあったものを。

このお客さんの死因は、建前上はデパートの屋上からの転落死でしたが、実際は
ご想像の通りでしょう。
これには、さすがに、僕もびっくりして、その日一日仕事が手に着かなかった記憶があります。

ご存じかも知れませんが、住宅ローンの場合、その残高に生命保険をかけているので、
後日、その方の残債は、保険金で相殺され、遺族の方には無傷の物件が残りました。
しかし、若かった僕には相当のショックで、その後、延滞者に督促をするのが怖くなった
ものです。

その後、遺族が、手続きにみえられ、残債の相殺のお礼を私どもに丁寧に述べられたとき
僕は、その人達の顔をまともに見ることができなかった。
遠い、昔の話です。


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昔の悲しい話 [昔話]

今日も温かい朝です。もっとも、昼過ぎからまた天候は、冬型になるそうですが。
昨日から水道を、井戸水に切り替えたました。顔を洗うと、水がお湯のように感じられて、
とても幸せな気分になってしまいました。

さて、人間、年を取ると、昔話を良くするようになると言いますが、今日はまさしく昔話です。
昔々、小生が、とある金融機関で融資担当者をしていた時の話です。
プライバシーのこともあるし、秘密保守義務もありますんで、詳しくは書けませんが
時効のになっていることですから、要点だけかいつまんでお話します。

沢山あるんで、折を見て書いていこうと思っていますが、今日と明日にまず、第一弾を
ご紹介いたします。

一話目は、小生が二十数年前、25歳で融資係になった時の話。

ある日の朝、仕事前のお茶を飲んでいるとき、同僚達の話し声が耳に入ってきた。
話の内容は、近所の釣り道具屋さんの家の前に商品が散乱していて、近所の住民が
喜んで家に持ち帰っている。と言うものであった。
そこは、僕の行きつけのお店であったので、驚いてしまった。

と同時に、その店に融資はなかったか胸騒ぎがして、台帳を調べてみた。
案の定、住宅ローンの顧客であったので、とりあえず、その店に駆けつけた。
行ってみて驚いた。店の前の散乱した商品は、大方、持ち去られ、店舗兼住宅は
もぬけの殻どころか、大阪ナンバーのベンツが数台店の前に停まり、その筋の若い衆
が生活道具を家の中に運び込んでいるところであった。

当時、住居の借り主には、異常なまでにアドバンテージのある、「短期賃借権」が良く援用
されており、その筋の方がその住居を占有するのを急いだのは、そのせいである。
これを、その筋の人がどう援用するかというと、通常、抵当権が設定されている物件は競売に
かかっても、まず配当はない。しかし、賃借権を逆手に占有を続ければ、物件を買う人がいな
くなるので、そこを抵当権者と話し合って、和解金をせしめるのが狙いである。

当方は連帯保証もとり、抵当権も設定してあり、かつ保証保険も付いているので免責事項さえ
なければ、別に問題はないのであるが、取りあえず、情報収集をして報告書を保証機関に提出
する義務があるので、事情を調べた。

詳しくは書けないが、大阪の業者から商品を仕入れていた、その店主は、その頃かなり
支払いが滞っていたみたいで、卸元が債権譲渡をしたらしい。
その相手先が、その筋の人たちで、店主家族は、その場で、何処へか連れ去られたそうだ。

その後、本人と連絡が取れ、大阪西成で、住み込みの労働をしているということであったが
何とも悲しい話で、今でもよく思い出す事例である。
二十数年経ち、あの人達は今、どうしているのだろう。


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