永久の別れ [家族]
どうもご無沙汰しておりました。
そして、その間、コメント返しも訪問もせず、申し訳ありませんでした。
今日はきわめて個人的な話題で、楽しいものではありませんので、
お忙しい方は、スルーしてくださいね。
実は、7月6日の早朝、父が息を引き取りました。
享年86歳、穏かな最後だったと聞きます。
というのも、個人的な事情で富山には居なかったものですから、父の
最後には間に合いませんでした。
僕らしいというか、最後の最後まで間の悪い、親不孝な息子でした。
思い起こせば、子煩悩な父でした。
大学受験に際しても、勉強嫌いの僕に、普通なら小言の一つもありそう
なところですが、「勉強しろ」などとは一言もいわない父でした。
また、学生時代に東京へ出張の際は、グリーン車の料金とホテル代を
浮かし、僕に小遣いを渡すのを何よりも楽しみにしていました。
そして、50歳にもなろう息子が、安定した勤めを辞め、不安定な自由業
への道を歩み始めたことをいつも気にかけていました。
何んとも、親不孝の極みですね。
父は、祖父の勤めの関係で、朝鮮半島の釜山生まれ。
釜山港へ入港する船を眺め、一度も行ったことのない祖国や故郷へ想い
を馳せる少年だったと聞きました。
その後、半島の旧制中学を卒業し、単身、本土に渡り、地元富山の旧制
高岡高等商業(現 富山大学経済学部)へ進学、在学中に学徒出陣で
応集し、運よく生き残りました。
戦後は、金融機関に入り、仕事一途の社会人生活を送り、退職後は
自宅に引き篭もっての読書三昧の生活を送っていました。
ある意味、彼的には、波乱万丈ではあるが幸せな一生だったとも言えますが、
やはり、出来の悪い次男のことが気がかりだったに違いありません。
母は、意外と淡々と現実を受け止めていたみたいです。
永い夫婦関係と深い絆が、そうさせているのかも知れませんね。
願わくば、僕たち夫婦もそうありたいものです。
最後になりますが、父が、思い出が壊れるからと、訪れるのを頑なに拒んだ
釜山へ、いずれ訪れたいと思っています。今なら、父もその近況を知るのを
楽しみにしているような気がするし、僕のルーツとも言えるのですから・・・。
長い退屈な文章、最後まで読んでいただき感謝いたします。
(コメント返しや訪問は少し遅くなるかも知れませんが、ごめんなさい)
そして、その間、コメント返しも訪問もせず、申し訳ありませんでした。
今日はきわめて個人的な話題で、楽しいものではありませんので、
お忙しい方は、スルーしてくださいね。
実は、7月6日の早朝、父が息を引き取りました。
享年86歳、穏かな最後だったと聞きます。
というのも、個人的な事情で富山には居なかったものですから、父の
最後には間に合いませんでした。
僕らしいというか、最後の最後まで間の悪い、親不孝な息子でした。
思い起こせば、子煩悩な父でした。
大学受験に際しても、勉強嫌いの僕に、普通なら小言の一つもありそう
なところですが、「勉強しろ」などとは一言もいわない父でした。
また、学生時代に東京へ出張の際は、グリーン車の料金とホテル代を
浮かし、僕に小遣いを渡すのを何よりも楽しみにしていました。
そして、50歳にもなろう息子が、安定した勤めを辞め、不安定な自由業
への道を歩み始めたことをいつも気にかけていました。
何んとも、親不孝の極みですね。
父は、祖父の勤めの関係で、朝鮮半島の釜山生まれ。
釜山港へ入港する船を眺め、一度も行ったことのない祖国や故郷へ想い
を馳せる少年だったと聞きました。
その後、半島の旧制中学を卒業し、単身、本土に渡り、地元富山の旧制
高岡高等商業(現 富山大学経済学部)へ進学、在学中に学徒出陣で
応集し、運よく生き残りました。
戦後は、金融機関に入り、仕事一途の社会人生活を送り、退職後は
自宅に引き篭もっての読書三昧の生活を送っていました。
ある意味、彼的には、波乱万丈ではあるが幸せな一生だったとも言えますが、
やはり、出来の悪い次男のことが気がかりだったに違いありません。
母は、意外と淡々と現実を受け止めていたみたいです。
永い夫婦関係と深い絆が、そうさせているのかも知れませんね。
願わくば、僕たち夫婦もそうありたいものです。
最後になりますが、父が、思い出が壊れるからと、訪れるのを頑なに拒んだ
釜山へ、いずれ訪れたいと思っています。今なら、父もその近況を知るのを
楽しみにしているような気がするし、僕のルーツとも言えるのですから・・・。
長い退屈な文章、最後まで読んでいただき感謝いたします。
(コメント返しや訪問は少し遅くなるかも知れませんが、ごめんなさい)
今日の記事には、蓮の花がよく似合いますね。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
86歳、大往生です。
ご長男もご次男も近くに住み、お孫さんにも恵まれて
幸せな生涯だったのではないでしょうか?
やはり苦学して、金融機関の支店長になった
向田邦子さんのお父さんの話を思い出します。
horigonさんは、お父さんの姿を見て
金融機関にお勤めされたんですね。
私は「宵越しの金はもたねぇ」タイプの父を見て育ち、
安定した生活が欲しくて、大きな会社に就職しました。
いろんな人生がありますが、受け継いでも否定しても、
親の生き方、性格など、何かしら影響を受けているものです。
落ち着かれたら、ぜひ釜山にいらしてください。
ご夫婦でも、ご家族でも、お父様の思い出を語りながら
歩く街、特別な思い出となることでしょう。
お母様、今はしっかりされているようでも、お大切に。
by ぐーちゃん (2010-07-17 09:03)
お父様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
急なことだったんですね。
お母様もこれから徐々にお寂しくなられるでしょうから見守ってさしあげてくださいね。(言うまでもなくされていらっしゃるでしょうけど。)
by kumimin (2010-07-17 11:50)
お父様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
私の父は昔から元気とはいうもののやはり少しづつ身体は老いています。
今の内に親孝行しておかないとね。
by komo (2010-07-18 00:46)
私も遠からず、同じ思いを巡らせることでしょう。
お悔やみ申し上げます。
by たいへー (2010-07-19 08:50)
心からお悔やみ申し上げます。
落ち着かれましたでしょうか。
色々、思うことがることでしょうが、親より先に逝かないこと、長く生きることが最大の親孝行なのではないかと近頃思います。
by ちあこさん (2010-07-21 22:55)
まとめレスで申し訳ありません。
みなさんには、お悔やみの言葉をいただき、とても嬉しく思います。
父の死から早くも2週間あまりが経ちました。気持ち的には、ほぼ
落ち着いたともいえますが、日々の生活に流され、そのことばかり
考えている場合ではないというのが実情かも知れませんね。
月並みな言葉ですが、父もジュン君も僕の心の中ではしっかりと
生き続けています。そして個人の意思に応えるということは、僕自身が
健康であらねばと思います。日々精進をせねば・・・。
by horigon (2010-07-22 07:56)
改めまして、お悔やみ申し上げます。
(PCのモニター画面の故障で1週間メーカーに入院していました。)
だれでも波乱万丈の人生をそれぞれ送ってきているものなのですね。
でもだからこそ思い出深い人生だったとも云えるのかもしれません。
わたしはまだ若造ですが、それなりに普通の人よりは波乱万丈の人生なので、よく分かるつもりです。
お淋しくなりますが、またお互いに前を向いて歩んで行きましょう。
お父上の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
by 茶谷昌宏 (2010-07-22 14:51)
ご冥福をお祈りいたします。
父を誇らしく思える気持ち、とても大事なことだと思います。なくなって9年、父はある意味、母よりも自分の誇りであるような気がしています。
更新通知がないので、末席に控えました。
by okko (2010-07-24 15:39)
お父様のご不幸心よりお悔やみ申し上げます。
明治生まれのも父様はさぞかし立派な方だったのでしょうね。
寂しくなりましたね・・・お父様の分迄長生きしてご家族が団結される事を祈っています。
幾つになっても親が居る事は嬉しい事です。
健康の有り難さを痛感している毎日です・・・
by ちゃーちゃん (2010-07-31 00:10)
お父様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
記事を読ませていただいて、お父様とhorigonさんは
素敵な親子関係を築いていらっしゃったのだなぁ~と
胸があつくなりました。
これからはお父様とジュン君がいつも天国から優しく
見守っていてくださることでしょう。
どうぞお母様をお大切になさってくださいませ。
by COCO (2010-08-01 15:11)
お亡くなりになられる数ヶ月前に 実はお父様とお話させていただいたことがございます。
本当にやさしく 淡々と 自分のことは自分でしようとされてこういうおだやかな父親がほしい!とこころから思いました。
眼鏡の奥のやさしい目を今 思い出しつつ書き込ませていだだいております。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
by ゆえねこ (2010-09-26 21:51)
■ゆえねこ様 ご配慮ありがとうございます。
わがままな父でしたから、ゆえねこ様にもきっとご迷惑をおかけした
ことでしょう。
ただ、亡くなってしまえば、父の良い思いでしか浮かんできません。
人間ってそんなものなのかも知れませんね。
書き込み、本当にありがとうございました。
by horigon (2010-09-27 06:44)